よみもの

妖怪どんどこどんのお話

妖怪どんどこどんは暗い水槽の中に棲んでいます。

水槽の中はいつもあたたかくってゆったりしています。
水槽の壁はぐにゃぐにゃ。
どんどこどんの動きに合わせて動いてくれる柔らかい壁です。

あたりは暗くてなにも見えませんが、水槽の外からは音が聞こえてきます。
高い音や低い音、忙しい音やゆっくりした音。
どんどこどんはいつもその音を聞いて過ごしています。

嫌いな音が聞こえてきたり水槽が大きく揺れるとき
どんどこどんは息をひそめてじっとしています。
でも一日中じっとしているということはありません。
水槽が揺れなくなって静かになったり好きな音が聞こえてきたとき
どんどこどんはうれしくなって踊り出すのです。

どんどこどん
どんどこどん

足を踏みならし
両手を上にあげ
ぐるんぐるんと回ります。

どんどこどん
どんどこどん

水槽もどんどこどんの踊りに合わせてぐにゃぐにゃ動きます。

どんどこどん
どんどこどん

今日はどんな踊りにしようかな。
じっとしてる間もどんどこどんは一生懸命考えていることでしょう。
その証拠に踊りは毎日ちょっとずつ違うのです。

どんどこどん
どんどこどん

******************************

…だめだ、オチねぇ。

今朝もめざましより先に妖怪どんどこどんに起こされました。

あんたが元気なのはいいけど、
それに比例して母ちゃんもうぐったりだよ。

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久しぶりにバーテンダー。

仕事で疲れた身体を引きずって電車から降り立つと、外ではまた雨が降っている。
乗り換えないといけないのだが、不便なことにこの駅では市営地下鉄と私鉄の間に屋根の付いた通路がない。
ほんの30メートル。
折り畳み傘をわざわざ開こうか、それとも走り抜けるか。
どちらもめんどくさい、長い長い30メートル。

そんなちょっとした街の隙間に、うちの店はあった。

「この絶妙な位置がいけないんだよ。」

常連客は自分に言い聞かせるように呟く。
私は二枚目のおしぼりを彼に手渡す。

夏にほど近い日の、開店直後。
曇天ではあるが、日は長い。
照明はもちろん落としてあるものの、ジャズバーにしては窓の大きい店内は、まだ不自然に仄明るかった。

私はまだ飲み物用の氷を準備していなかったことを思い出して慌てる。
看板を表に出すのと、彼が駆け込んでくるのが今日は同時だったのだ。

「あ、急がなくていいよ。なんかこういうのもさ、特権みたいじゃない。」

そう言って客はにやける。
確かに。
まだいつもの開店時間にはほど遠いのだ。常連でなければ追い出している。

BGMをつけ、氷を砕き、飲み物を作る。

「フードはいかがいたしますか?」

本当は、まだ忙しいので頼んで欲しくない。

「いや、いいよ。もう一人くらいバイトが来てからで。」

「物分かりのいいお客様で助かります。」

「るりちゃんを独り占めできるのも今のうちだしね。」

おしぼり二枚で濡れた身体を拭い、ジン・バックでのどを潤したころには彼の調子も戻っている。
仕事帰りのサラリーマンから、バーボン好きの中年男に衣替えする瞬間。
口からは何にも束縛されない言葉が紡ぎ出され、視線はカウンター奥の棚を物色しはじめる。

「今日のお勧めは?」

「もう桜井さんの方がお詳しいんじゃないですか?」

実際そうなのだ。
けれど彼は自分に何かを勧めるようにせがみ、私は少ない知識とあやふやな記憶をたどって、彼がこんな日に好みそうなものを選ぶ。

急いで砕いたためにいつもより角張った氷がロックグラスの中で丸みを帯びはじめる頃、もう一人のバイトと、数人の客がやってくる。
マスターが来る時間にはまだ遠い。

夏がそこまで迫っている、雨の多かった日の、夜の始まり。

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壊死

記憶力が薄れてきている。

たとえば外に買い物に行って、車を運転しながらふとあることを考えている。
帰ったらそれを日記に書こうと思っていても、帰り着いて、二、三、用事を済ませているうちに、跡形もなくその考えはどこかに流れてしまっている。

その日のうちに感動したことや感銘を受けた出来事、憤慨したことすら、寝る前には思い出せなくなっている。

一日にあったことを誰かに報告する習慣が失われつつあるからだろうか。

誰かに報告すると言っても、私にはその相手は夫しかいない。
けれど夫は毎日帰りが遅いし、帰ってきてからも彼が一日の報告をするので、私の分はあまりないのだ。

所詮、私の一日に大した出来事はない。
夫を送り出し、少しもしくはたっぷり二度寝して、洗濯や掃除や買い物をし、好きな本を読み、夕飯の準備をして夫の帰りを待つ。その繰り返し。
気が付けば、今まで好きだったことをすることもなくなっている。
裁縫も勉強も編み物も小説も、する気が起きない。

最近夢の中の方が楽しくってさ。

休みの日に寝坊した私を茶化す夫に、冗談で言った言葉。
言った後、それが真実であることに気が付いた。

夢の中では色んなことが起こる。
色んな人に出会って、色んな事件や冒険が起きて、それを解決したり逃げ回ったりしている。どきどきしたりひやひやしたりする。

その途中でふと目が覚めて、自分が夫の帰りを待つしかない一人の女だと思い出す。
そこに救いはない。
私はもう一度、布団をかぶり直して眠りにつくしかないのだ。
いっそ頭痛がするまで眠りに。

出口がないのは分かっている。
ただ眠りに逃げ込んでいるだけでは出口はいつまでたっても私の前には現れない。
人はこれを贅沢だ怠けだとあざ笑い叱咤することだろう。
それが私の苦痛になるとも知らずに。

日常の些細なことを覚えておく記憶力が薄れてきている。
日常に感情を挟んで覚えておくことが出来なくなっている。
考えることをしなくなって、脳細胞が破壊されてきているのかも知れない。
夢と現実の境界が曖昧になってきているのかも知れない。

誰も知らないうちに、自分さえ気付かぬうちに、
私という人間が壊れてきているのかも知れない。

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霧雨

レンタルビデオを借りて、隣のスーパーでヨーグルトを買って、出てきたら、雨が降りていた。
肌にあたる感触すらしない、霧のような雨。

そういえば、世間は梅雨入りしたのだとテレビが言っていた。
言われないと気付かないほど、この土地はいつも曇りがちで、湿りがちだ。
無論、私の中も。

人の心配を無闇にしたがる人ほど、なにより自分が可愛いのだと思う。
自分に興味を向けて欲しい分だけ、人に興味があるふりをする。
本当に自分以外の人間に興味がある人など存在するのだろうか。
しない、と私は思う。
自分がそうであるだけに。

人はいつでも鏡を見ていたいのだろう。
でも本物の光を反射する鏡をじっと眺めていたところで自分が見えるわけではないから、他人という魔鏡を使ってその代わりにしようとする。
自分より不幸な人、自分よりリッチな人、自分よりみじめな人、自分より立派な人、世の中には様々な自分と違う人がいて、無言で私に圧力をかける。

先日、除湿器を買ってきた。
夫の勤める会社の製品。
湿気を取ると同時に、マイナスイオンを出してくれる。
ごうごうと巨大な音を立てて働き、数時間後にはタンクいっぱいに水がたまる。
目に見えないのに、きっちりと部屋の中を舞っていた、水の分子達が捕らえられてタンクにたまる。

身体の中の毒は、一向に集まる気配がない。
ぐるぐると五臓六腑を巡って、私の細胞を痛めつけている。
ごうごうと音を立てたら除湿器のようにどこかに集まって捨てやすくなるのかも知れないと、時折肺を震わせて嗚咽を上げてみるけれど、成果が上がったことはない。

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たずねびと。

その日のライブは最高だった。

こんな人がまだまだ関西の辺鄙なバーを巡業してたりするんだなぁ、と思うと、なんだか溜息がでた。
メジャーな世界ばかりが実力の世界じゃない。
豪華な衣装も華麗なスポットライトもない世界が、実は一番過酷なのかも知れない。

私はぼろりと鱗の落ちた目で、おたおたとグラスを洗い、
歌い終えたミュージシャン達のお酒を作っていた。

帰っていったお客さん達のグラスの量はけして多くない。
数はいないくせに、来たお客さんはみんな一杯のカクテルで粘るから、売り上げ的には全然嬉しくない。
なのに、またどうぞ、という気になるのは、その時間を彼らが真剣に過ごすからだ。

ひたすら歌手を見つめ続けるちょっと年のいったOL。
体全体を揺らして聞き入る中古車販売の青年。
バンドの方に背を向けてグラスを傾けながら、でも全ての曲を歌えてしまうサラリーマン。
目を閉じて微動だにしない中学校の先生。

「おい、るり!」

マスターが怒鳴る。
バーカウンターの中を、息を詰めてでないと通れないようなお腹を揺らして、
自分のグラス片手にやってくる。
例のごとく、とっくにお酒は回っているようだ。

「お前な、若いうちに何でもやっておけよ!」

訳の分からないことを突然言って、ばんばんと私の背を叩く。

「何のことですか?」

「感性だよ、感性!」

やっぱり意味が分からない。

「感性はなぁ、年とるごとに薄くなるんだ。今のうちに何でもしろ!」

「そうなんですか?」

「馬鹿野郎だなお前は!まだ若いから分かんないんだよ。俺様の言うことを聞け!」

そう言い残して、新たに自分のお酒を作って、行ってしまった。
本当にあれは、経営者というよりただの酔っぱらいだ。

マスターには謎が多い。
名刺も配ったりしてるけど、いまいち本名なのか分からない。
どう考えても逼迫している経営状況の中、どこからかお金を工面している。
やばい仕事でもしてるのかな、と思うけれど、スタッフは誰も聞かない。
見た目も中身も野獣(笑)なのに、奥さんも彼女も凄い美人。まるで作り物のように。
でも多分ロマンチスト。
昔はどこそこの「総長」だったらしい。

久しぶりにメールでも送ってみようかと思ったけれど、そういえばこないだ整理したときにメールアドレスを削除してしまっていた。
正体不明のマスターは、現在行方不明である。

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拘り。…って書いて読める?こだわり。

週に二日、必ず店に来るお客さんがいた。

夜八時頃にやってきて、カウンターの一番端っこ、最も暗くて、見えにくい場所に座る。

趣味人が集まるジャズバーには珍しく、無愛想で、話しかける隙を与えない。
眉間にはいつも皺が寄っている。

そして必ず、レッドアイを飲む。

 *レッドアイ*
   ビール 1/2
   トマトジュース 1/2
 タンブラーに入れて軽くステアする。
 (氷は入れない)

彼は席に着いたら低い声で「レッドアイ」と言う。
すでに私達は「レッドアイだろうな」と思いながらトマトジュースを足元の冷蔵庫から出してある。

ビールは飲みやすくなるけれど、特に美味しいわけでも、知名度があるわけでもない。
有名なのは、若き日のトム・クルーズがでていた映画「カクテル」で、トム・クルーズの師匠役の人がこれに生卵を丸ごと落としたものを飲んでいた。

彼は、これをトム・クルーズの師匠ばりに一息で飲み干す。
出したと思ったら次の瞬間、グラスは空になっていて、
「ジン・トニック」と、次の注文をする。

 *ジン・トニック*
   ドライ・ジン 45ml
   トニック・ウォーター 残部
   レモン・スライス 1枚
 タンブラーに氷塊、ドライ・ジン、トニック・ウォーターを入れ、軽くステア。
 レモン・スライスを飾る。

私達はもちろん氷を出したりしてこっそり待ちかまえている。
店では通常ゴードン・ジンを使っていたけれど、
このお客さんはタンカレーでないといけない。
緑色で太っちょな、消火栓をまねたというボトル。

これもすぐに干してしまう。
三口ほどでくい、くい、とグラスは空になる。

それから初めて、彼は一息ついて、私達の後ろの棚を眺めるのだ。
彼がいつも座る端っこの方からは、バーボンやテネシー・ウィスキーがよく見える。

指定されたものを、私達はショットグラスに入れて出す。
それをちびちびと2,3杯飲んだら、何も語ることなく、彼は店をあとにする。

耐えきれなくて話しかけてしまったことが何度かある。
でも大概、「まぁいいじゃないか。」と流されてしまう。

一度だけ、機嫌良さそうな時があった。
機嫌よさそうに「俺は自分にしか興味がないんだ。」と一言言った。

なるほどね、と私は深く納得してしまったのだった。

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マニキュアとペディキュアの違い。

爪にヤスリをかける。

形を整えるための固いヤスリから。
爪切りで切ると二枚爪になりやすいというので
面倒臭いけれどちまちまと爪先を研ぐ。

爪の表面を滑らかにするためのヤスリをかける。
粗い目でかけ、細かい目でかけ、
クレンザー入りのクリームを皮のヤスリに延ばして
爪を磨き上げる。

爪専用の潤いクリームを塗る。
甘皮の辺りにしばらく放置したあと、
念入りにクリームを刷り込む。

ベースコートを塗り、
マニキュアを塗り、
もう一度重ね塗りして、
トップコートを乗せる。
計四枚の層が新たに十枚の爪の上に乗る。

薄く弱っていた爪が、厚く補強された感じ。

得意な気持ちになるものの、しばらく身動きがとれない。

爪を褒める男性はいないと、聞いたことがある。
そういえば爪を褒める男性には出会ったことがない。
寒々しい色や派手がましい色を乗せていると眉をひそめるものの、
穏やかな色を乗せているだけでは、微妙な変化にも気付かない。

それなのに爪に色を乗せる行為。
これはもう自己満足以外のなにものでもない。

爪に集中している時間は、物事を忘れる。
忘れないと、失敗するからだ。

嫌なことがある時は、爪が綺麗に整えられている。
集中する時間が必要になるからだ。

今の私の爪は、丁寧に塗られたマニキュアが剥がれかけてきている。
いっそのこと全部落とそうかな、と考えて、
自分が冷静な状態に戻っていることに気付く。

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同級生。

「私ね、義理堅いからさ、夫以外の男性に食事をごちそうになっちゃうと、お返ししなきゃ、と思うわけ。なんていうか、カラダでね、」

老女は相当に酔っぱらっていた。
頬が赤い。
皺の一本一本に塗り込んだ白粉の上からもそれが分かる。
白い顔と対照的に黒々とした髪の毛。
カツラなのかな、と私達はカウンターの隅で囁いた。

連れの男性は、彼女の相手は諦めて、ママとの会話に夢中だ。
二人は五十年ぶりに再会した同級生同士らしい。
昔話でもしようと食事に行った帰りなのだ。

「だってさ、あたしなんて夫以外の人と出歩くことなんて無かったわけ、ここ五十年。
それが同級生だったってだけで、ごちそうになっちゃってさ、夫も連れてってくれたことないようないいお店。
なんか、すっごく悪くってさ。なにかしなきゃいけないじゃない。
で、あたしにはもうカラダしかないわけじゃない。」

彼女は懸命にこの話を続けている。

「いやいや、気にしなくていいんだよ本当。」

時折、男性があわてた口調で遠慮の言葉を口にする。
ママはこの話が始まってから、一度も彼女の前には立たない。
嫌いな客の相手は私達に任せる主義なのだ。
私達は、答えようがなくて、漫然と笑みを浮かべる。
どうせお構いなしに彼女は喋り続けるのだ。

「カラダなんて、恩を仇で返すようなもんよね。」

冷蔵庫に食材を取りに行くふりをして、順さんが呟いた。
私は吹き出しそうになって、懸命にこらえた。

老女は変な色のスーツを着ていた。数十年前に授業参観に行ったときの服だろうか。
あたしこういうの飲むの初めて、と言いながら杯を重ねるブランデーのせいで、口紅はもう縁しか残っていない。

「若かったらさ、食事を一緒にするだけでも向こうは喜ぶんだろうけどね、あたしはやっぱりほら、お返ししないといけないからね、」

いつまでも続きかねなかったが、どう止めていいのかも分からない。
私達がほとほと辟易してきたころ、天の助けがあった。

「いらっしゃいまっせ〜」
ママの声が響く。新しいお客だ。
常連さんが三人ほどで、にぎやかに入ってきた。

他の客が入ってから、彼女は「お返し」の話を口にすることはなかった。
つまらなさそうに頬杖をつきながら、ちびちびとブランデーを飲み、
終電の時間になって連れの男性と共に店をあとにした。

その後二人がどうなったのかは、分からない。

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妻の秘密

夫は必ず振り向いて手を振る。
女もそれに応えようと手を挙げた頃に、ちょうど鉄のドアは音を立てて閉まる。

閉まってしまえば、もうドアの内と外は全くの別世界だ。

女はそのことに少し安心して、布団へと戻る。
自分を送り出したあと妻が再び眠りについていることを、夫は知らない。

女は、朝寝を恐れていた。
それなのに毎朝まるで課せられた責務のように布団に戻ってしまうのはなぜなのか。

夫の温もりが微かに残る布団に入ると、自分の足先がすでに冷え切っていることに気付く。
冷えにさいなまれ、女はなかなか寝付けない。
それでも戸を閉め切り、暗くした部屋の中で必死に目をつぶっていると、ひたひたと打ち寄せる波のように、眠りが次第に自分を包んでいくのを感じた。

朝寝の中で、女は何度も夢を見た。
それらは夜、夫と並んで見るときのものとは全く違っていた。

女は子供に還っていた。
顔の見えない他の幼子達と砂場で遊んでいると、直に母親達が迎えに来るのだ。
一人、また一人と母親に連れられて帰っていく中、女は自分の迎えが来ないことを必死に祈りながら、砂に熱中しているふりをした。
「…ちゃん、」
しかし、毎回迎えは来るのだ。
逃げ出したい気持ちで一杯になりながら、その声に振り向くところで、毎回夢は覚めた。

目が覚めると、瞼を開ける前から、自分が金縛りにあっていることに気付く。
毎度のことだ。
不思議と恐怖も焦りもない。
ああ、来た、と女は覚悟する。
布団の周りで、畳の鳴く音がする。
一定のリズムで、なにかが歩き回っているのだ。
これは男だと、女は確信している。
その男はしばらく女の周りを回った後、枕元で立ち止まり、思案する。
女は一目姿を見ようとするのだが、そう思えば思うほど瞼は固く締まってしまう。

やがて男は女の方へかがみ込み、その大きな手を伸ばす。
目は閉じているはずなのに、女は自分の額に向かって男の手が伸びていることを感じ、逃げようともがきながら、再び眠りへと落ちていくのだ。

何度かの夢のあと、女はあっさりと目を覚ます。
そのころにはもう日が高くなっていた。
布団から這い出ると、偏頭痛がまた訪れている。

なぜだか、女は夫にその夢のことを言えないでいた。
夢の中で迎えに来る者が、あの男なのかと、少し思う。

(了)

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布団の中。押入の中。

暗闇の中、私は夫と手をつなぐ。
そのままじっとしていると、初めはあった体温の差が、じわりじわりとなくなっていく。

夫はもう数ヶ月も残業続きで、帰宅は真夜中過ぎになる。
遅い夕飯を食べて、風呂に入ると、すぐ布団に入らないといけない。
同じ家に帰る身であっても、話したり触れたりする時間は2時間程度だ。

限られた時間を有効に使う手段を、私は知らない。

ずっと手をつないでいると、体温どころか皮膚感覚までも、じわりじわりとその差がなくなってくる。
どこからが夫の手で、どこまでが自分の手なのかはっきりしない。
二人とも、微動だにしない。

神経のしびれ。
上がっていく温度。

なにかと似ている、と、私は記憶を巡らせる。

布団の重みと、自分以外の生き物の呼吸。
私達はその時、大人から隠れて暗闇の中にいた。

くすくす笑いをこらえながら、小さな弟と潜り込んだのは、押入の中だ。
怒られたときに閉じこめられる場所に、自ら潜り込むという逆説。
おもちゃや母親や食べ物を取り合う、敵同士の弟と同じ場所に閉じこもるという違和感。
私達はその非日常性に興奮し、冒険心を共有した。

暗闇は、暗ければ暗いほど、目では見えにくかったものを露呈する。

私は小さな弟の高い体温に気付き、弟は私の髪の匂いに気付いた。
狭い押入の圧迫感はそれらを助長する。
闇は、不安を煽るのに最適だ。

結局、私達はどちらからともなく、音を上げた。
大きく息を吐きながら襖を開けて飛び出した頃には、また姉弟喧嘩が始まっている。

その時の、奇妙な安心感。

夫と暗闇の中手をつないでいると、私達がもともとひとつの生物であったかのような錯覚に陥る。
本当にそうなら、どんなに心安らかだろうと思う。
意志も魂も一緒くたになって、ひとつの生物となれば、その分、憂いも減るのだろうか。

けれど、と思う。

ひとつの生物になってしまったら、そこからまた、その生物としての憂いが始まるのではないだろうか。
たとえば父と母が混じりあって出来た私という生物が、私としての憂いを持っているように。

それならまだ、私は夫と違う生物でいたい。

がばりと、大きく寝返りを打つ。

自分だけの神経が、自分だけの身体に戻る音がする。
つながっていた部分が、少し寒い。

けれど私は、さっきより少しだけ安心して、眠りにつくのだ。

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